シャトー・ラ・トゥール・カルネの歴史は12世紀まで遡り、メドック最古のシャトーのひとつに数えられています。その名前の由来は、この地の領主ジャン・ド・フォワに仕えたカルネという名の従者で、勇猛な騎士として有名だったカルネは、勇気と献身の報いとしてこの領地を受け継ぐこととなりました。ちなみに、16世紀にこのシャトーを所有していた輝かしい面々の中には、『エセー(随想録)』の著者であるミシェル・ド・モンテーニュの妹レオノールもいます。サンジュリアンからベイシュヴェルへの道に印象的な四角い塔があり、これがシャトー・ラトゥール・カルネの入口となっています。メドックの中で最も美しい丘の上に建てられたこの塔は、中世の時代にフランス騎兵の要塞として使われていて、シャトーの外壁の建築は百年戦争の激動の時代を彷彿とさせる造りです。その後、メドックにおいてワイン貿易が繁栄し、すべてのブドウ畑の中心に城館が必要だという風潮が広まりました。そうした点では、すでにこの時代には城館を所有していたオーナーのカルネは、先駆的存在であったといえます。1500年代からフランス革命まで、ラトゥール・カルネはオーナーが交代を経験しながら、ブドウ畑の改革の時代に入り、貴族たちは、ワインビジネスよりも土地自体に興味を持ち始めるようになります。それは、ルイ11世によって設立された議会の重要性の高まりによってさらに拍車がかかり、これらの活動は徐々に、ヨーロッパ北部を中心に活躍したオランダ人商人が行い、彼らはトロンの郊外にワインセラーや倉庫を建てるようになります。1789年の革命時には、スウェーデン人貴族が所有していたため没収を免れ、ラトゥール・カルネは名声を持ち続けることができ、その証として1855年のパリ万博の際に4級に格付けされ、その品質の高さは当時から評判で、良いブドウを猪や狼などから守るためにドラムを打ち鳴らしたといわれるほどでした。しかし、フィロキセラの猛威によって、ほとんどのブドウが被害を受け、生産量が減少してしまいます。それから1962年にオーナーが変更になるまで、不遇の時代を送ることとなりますが、新しいオーナーは、フィロキセラに破壊された畑を復元し、シャトーを大改修する改装を行いました。その結果、畑は45ヘクタールまで回復し、現在は格付け本来の品質を取り戻しつつあります。