オートバイのエンジン音が、静寂を切り裂くように近づいてくる。ヘッドライトが眩し
くて思わず目を逸らす。いつもの新聞配達の青年とすれ違う。まだ明けきらない薄暗闇
の中、次第にそのエンジン音は遠ざかる。やがて再び静けさが訪れ、自らの呼吸音と足音
だけが規則正しく繰り返される。3月初旬の早朝、何故か僕は走っている。散歩をする人
にも出会わない時間だ。3月と言ってもまだまだ寒い。しかも薄暗い早朝に誰も好き好んで
犬の散歩をする人はいないだろう。住宅街を抜け、7分程走ると天竜川の堤防の道に出る。
僕のお気に入りのランニングコースだ。
天竜川を眼下に伊那谷の山々を眺めながら走る。北東の遥か先には南アルプス、西を見れば
すぐ手が届きそうな風越山の雄大な姿、そして裾野に飯田市街地が広がる。川の対岸には
下久堅の里山の中に民家が点在して見える。特に、春夏秋冬季節を体感しながら走ることが
出来るのが一番の魅力だ。しかし今日はまだ夜が開けきらない。景色を楽しむわけにはいか
ない。天竜川のせせらぎの音だけが心地よいリズムを刻んでくれる。スタートしてから約15分、
だんだん空が白んでくる。腕時計のデジタルの文字もようやく読み取れるようになった。
普段は時計などしないが、走る時だけはストップウォチ機能の付いた腕時計を必ずはめるように
している。ただ僕のものは相当の安物でランプ機能が付いていないため、暗い中ではまるで役に
たたないのだ。いつもはこんなに暗い中は走ることはないので今のところ不自由していない。
壊れるまで使おうと思っている。
16分が経過している。少しペースが遅いかもしれない。背後から車のエンジン音が、だんだん
近づいてくる。まだ明けきっていないので、ライトを点灯している。エンジン音が大きくなり、
背後から近寄ってくるのが分かる。抜かれるまで出来るだけ右側に寄って走らなければいけない。
この堤防の道路は案外、車の通行量が多いのが難点だ。平行して国道も走っているが、こちらの
方が僅かに近道なのと信号もないので地理に詳しい地元の人はこの堤防の道を良く使う。道幅は
5m程で舗装されているので車のすれ違いはスピードを落とすことなく可能だが、通行人がいる
場合はどちらかの車が道を譲らなくてはいけない。特に朝の7時半から8時半の時間帯は通勤の
車が何台も通過する。危険極まりないランニングコースに変貌するのはもちろん、通勤の車に
多大な迷惑を掛けてしまう。「いっそのこと、車両通行禁止にして散歩やランニング愛好家の
専用道路にしたら多くの利用者がるのに」と勝手なことを考えたりする。いずれにせよ通勤時間帯
はこのコースは走らないにかぎる。
時計は18分を経過している。水神橋を左に見て国道を横切る。ラッシュ時には何台も車の通過を
待たなくてはならないが、この時間なら立ち止まることなく走り抜けられる。ここから約1・5キロ
堤防が途切れる地点までは、日中でもほとんど車の行き来は無い。道幅は3m程に狭くはなるが、
安心して道の真ん中を走ることが出来る。途中天竜川はさらに南下して川路方面に向かうが、
堤防の道は大きく右に曲がり支流の毛賀沢川に沿って西に進む。ここから約700mは舗装されて
いないので、注意深く走らなくてはいけない。雨の日の翌日はぬかるんでいるし、乾いていても
デコボコして走り辛い。下手をして足を取られて転んだら大変だ。ようやく堤防の道も終りとなる。
ここがいつもの折り返し地点だ。自宅からちょうど5km。時計を見る。27分37秒。
やはり少しペースが遅い。